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校長あいさつ

2009年07月01日
あこがれとしての存在 
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 「子ども」    ドロシー・ロー・ノルト
批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる
殴られて大きくなった子どもは 力にたよることをおぼえる
笑いものにされた子どもは ものを言わずにいることをおぼえる
皮肉にさらされた子どもは 鈍い良心のもちぬしとなる
しかし、激励をうけた子どもは 自信をおぼえる
寛容にであった子どもは 忍耐をおぼえる
賞賛をうけた子どもは 評価することをおぼえる
フェアプレーを経験した子どもは 公正をおぼえる
友情を知る子どもは 親切をおぼえる
安心を経験した子どもは 信頼をおぼえる
可愛がられ抱きしめられた子どもは 世界中の愛情を感じとることができる
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 新聞やテレビでは、毎日のように殺伐とした事件が報じられています。その中には、青少年の起こした事件も少なくありません。何が彼らを悲惨な事件へと駆り立ててしまうのか真剣に考えるべき時がきていると思います。
 先月、「まんざらでもない自分」を感じることができる子どもを育てたいという話をしました。このことが悲惨な事件がなくなっていくことに少なからず関係すると考えているからです。
 そして、「まんざらでもない自分」を感じることができるためには、自分の生き方も大切な要素ですが、その子を取り巻く大人の有り様も大きく影響をすると思います。そのことを見事に示唆してくれているこの詩を、私は機会あるごとに紹介させていただいています。
 この詩を書いたのはドロシー・ロー・ノルトさんといいます。4年前に亡くなられました。そして、記憶に残っている方もいるかと思いますが、皇太子さまがご自身の誕生日に愛子さまを想って読まれた詩でもあります。
 時代がどんなに変わろうとも、人を人として愛し、人として育てることの「普遍的な愛」がこの詩にはあると思えてなりません。そして、子どもの健やかな成長は間違いなく「子どもを取り巻く私たち大人の生き方にかかっている」ことをこの詩は教えてくれています。寛容や励ましを行動で示し、自身もフェアプレーで生きている大人の姿はまさしく生きる教科書、人生の師と言えるのではないでしょうか。そして、それは子どもにとってあこがれともいうべき存在だと思います。一緒にキャッチボールをしながら生き方を説いてくれたり、一緒にお料理をつくりながら本当の優しさを教えてくれたり、「人様に迷惑はかけてはいけない」と毅然と叱ってくれたりする家族や周りの大人に、子どもは心を動かされるのだと思います。
 夢やあこがれをもちにくくなっているこの時代に、それを可能にするのはやはり私たち大人であろうと思うのです。
 「あこがれ」を感じてもらえる大人になることが私たち大人の責任だと思っています。

 校長  豊田 公敏
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